「――ちょっと! どういうことよ!!」
娘は叫んだ。
このようなことがあるはずはなかったからだ。
「――君の気持ちも尤もだと思う。でも、これは俺達の問題だ」
目の前に座り込む青年は、見たこともない穏やかな笑みを浮かべている。
その後ろに佇む男も、その横に立つ少年も、同じような笑みのまま、彼女を見つめていた。
「こんな怪しい僕たちの素性について聞くこともなく、一年もの間一緒にいてくれたね」
「……詫びる言葉もねえが、せめてこれからの幸せを祈らせてもらう」
「僕たちにずっと付き合ってくれて、ありがとう」
「数百年振りに、楽しい時を過ごさせてもらったぜ」
娘は焦燥も顕わに三人に向けて手を伸ばしたが、目視できない壁のようなものがその手を遮る。
「数、百年……? ちょっと、待ってよ」
その壁に手を着いたまま喘ぐ。三人は微笑を崩さないままで、そして青年は立ち上がった。
「俺達は、ずっと時の呪縛から抜け出せないでいた。自由に動いているように見えて、それは自由なんかではとてもなかった、しかし何よりも自由だったその呪縛の中で、俺達は他の人々の言う九年を生きて……そして君が現れた」
話の見えない青年の言葉。娘は黙って聞いているしかなかった。娘の立つ地は間違いなく先程まで四人で来ていた忘れ去られし森の祭壇である筈なのに、壁の向こうは闇に閉ざされ、彼らは暗闇の中に立ち、それでも皆瞳に強い光を湛えている。
少年が言葉を続けた。今までの拙い言葉遣いが嘘のような、不思議に優しい声だった。
「君は一つの光だった。単純な属性の話じゃない。本当に君は、僕らにとっての光だったんだ。……僕らは皆闇だったから、君の光にとても憧れた」
「テュル?」
「だからお前に『パーティを組まないか』と誘った」
娘の問うような声に重ねるよう、更に男が少年に続いた。
男を見て、娘は空を見た。……木漏れ日となって注ぐ太陽の光が、眩しかった。
「……ユルレ……? あなた、今昼……」
男は笑っただけだった。
「どことも知れない町の、夜の酒場だったな。金がないから掲示板に張ってある盗賊団退治を一人でやってやると意気込んでいたお前を見ておれは呆れたものだ。今ならそれぐらいやってのけただろうと思えるが、何も知らない者から見たらあの時のお前は単なる無謀な小娘だった。だから見かねて言ったのだろうとお前は思っていたかも知れないが、本当は皆お前の光に焦がれただけのこと」
その時のことを思い出したのか、青年がいつものようにけらけら笑い出した。
「あん時ゃあ面白かった。そりゃあ面白かったぜ、何しろお前が話しかけた途端にセイントランだもんな。不意を突かれて吹っ飛んでいく様は痛快だった!」
大きく手を広げながら、な、と彼が少年を見ると、少年も笑っていて、娘は男を見たが、当の男もくつくつと喉を震わせ笑っていた。
「あれは死ぬかと思ったな」
「俺も死んだかと思った」
「僕は思わなかったからこのまま乱闘に発展したらどうしようって思った」
「ちょ……ちょっと、あんたたち」
娘が呆気に取られながらも何とか言葉を発すると、悪い悪いと言いながら青年は娘に向き直ったが、顔はまだ笑っている。
「あれから時は動いた」
顔はまだ笑っていた。
「動いたんだ。呪縛なんざなかったかのように。テュルはゆっくりと成長して、ユルレは日が昇る間は動けなくなって、……俺は髪が伸びた」
「……ネイド」
娘は彼を見た。背中の中ほどまでだった彼の白い髪は、確かに腰辺りまで伸びている。
もう一度彼を見た。彼の顔はまだ笑っていたが、もういつもの笑みではなかった。どんな幸福な思いをすればこんな笑みが出来るのだろうという、そんな切なそうな嬉しそうな顔だった。
壁向こうの暗闇が濃くなった。そう思って娘は彼らから一瞬目を離して、そしてようやく、暗闇が濃くなったのではなく、壁を挟んだこちら側が白い光に満ちているのだということを知った。
そしてまた娘は壁にばんと手を突き、向こうの暗闇に入らん勢いで顔を向けたが、そこに三人の姿はなく、本当に黒だけが広がっている。
「……、ねえ! どこ!? どこにいるのよ、三人とも!?」
娘は寒気がしだした。必死に暗闇を見渡す。周りの光に目をいられながら、壁のこちら側も見渡した。三人はいない。
なのにどこからか届く声はただ優しかった。
「時が動いたが故に、おれ達はやらなければならねえ事に気付けた」
「だから、君を僕らは君の運命の時に連れて行ってあげる」
「もう絶対に会うことはねーけど、楽しかったぜ」
ばん、もう一度娘は見えないのに通れない壁を叩いた。
青年の言葉通りに、予感がしていた。脳裏で警鐘が鳴り響いている気すらする。ばんばんと、何度も何度も壁を叩いた。周りの白がいつの間にか彼女の視界まで覆い尽くしていて、本当に叩けているのかすら定かではなくなってきている。
「ありがとう、レミール」
だから、その最後の声は果たして誰だったのか、娘には分からなかった。全員かもしれないし、本当は誰の声でもない、あまりに黒い闇とあまりに白い光の間から聞こえた空耳かもしれなかった。
「――テュル! ネイド!! ユルレ……ッ!!!」
せめて声の限りに叫んだ娘の声は、しかし彼らに届いたかはわからなかった――
******
「――さっ、て」
……ネイドは、わざとらしく伸びをした。最早暗闇などではなく、先程までいた小さな祭壇の手前で、くるりと一回転してわざとらしく笑みを浮かべる。
「数百年、ってことはやっぱもう思い出しちまったわけ? ユールレさん」
「……もうおれはその名じゃねえ」
ユルレは――いや、男は冷たい目で彼を見下ろした。立ち昇る殺気を隠すこともなくネイドとテュルに向けている。
「それでもなお話をわざわざ合わせてやったんだ、感謝しやがれ」
「やっぱりレミールのことは知ってたの?」
「……手前らには、もう関係のねえ事だ」
テュルの言葉にも耳を傾けることなく、男は自らの剣を手に取る。すらりと抜き放つと、蒼い刀身が露わになる。脈動する魔の剣の切っ先をぴたりと――少年に向けた。
「冥途の土産にも、やる気はねえな」
「だろうね」
テュルは微笑んだままだった。
「君が言った『僕らのやらなければならない事』。それは君が僕を倒し、再び時の呪縛に身を委ねる事」
「分かっているなら話は早い」
男はゆっくりと歩を進めていく。テュルは一歩一歩彼に合わせて下がっていき、やがて祭壇に背中をつけて止まった。
「一つだけ、弁解してもいいかな」
男も止まった。
「僕はあの時君に『彼』を倒す方法を教え、僕と組むことを拒否した君をしもべにした。そして『彼』をも従えた。それは確かだ。だけど、それからの日々は本当に楽しかった。それも確かなんだ」
「だからどうした」
「どうもしないよ。だからこそこれだけは言っておきたかったんだ」
「そうか」
男は剣を構えた。それは防御を考えない突きの姿勢だった。防御をする必要もなかった。
ネイドは腕を組んだまま二人を見つめて微動だにしない。
「あ、もう一言だけ」
言ってテュルは子供らしい屈託のない、本当に屈託のない顔で笑った。
最後まで男の目を見て笑っていた。
「……君たちがもう黒に呑まれることのないように、祈ってるよ」
――。
木に留まっていた白い鳥たちが大きな羽音を立てて飛び去った後も、ネイドは微動だにしなかった。
男が血すらつかなかった剣を祭壇に突き立て、ネイドをようやく見やったところで、彼もまたようやく口を開いた。
「俺は一つ聞いておこうか」
何もない、とすら表現できるような、無表情だった。
「……あんたの中に、もうユルレはいないのか?」
「ユルレ、ユルレと煩い奴だ」
不機嫌さすら表情に出して、男は鼻を鳴らした。
「もうそれはどこにもいねえ。分かってんだろ、――――――」
「あのな、―――――」
彼らは互いの真の名を出した。
……否、真の名なのは片方だけだった。
「悪いけど、俺はもう――――――じゃねーんだよ」
「何?」
「俺はネイドだ」
怪訝に眉を顰める男に、青年は……ネイドは言い放った。
「賭博が好きで宝箱が好き、女の子と遊ぶのも好きで当然仲間たちと遊ぶのも好き、そして色んな人々と接するうちに闇から自らを見出した、ただのネイドだよ」
「――ふざけたことを」
「俺は生憎大真面目だ」
「……もういい、話をすることすら苦痛だ」
男は左手をだらりと垂らした。ぱり、という何かの弾ける音と共にその手に剣が現れる。
やはり言っても無駄だったかと、ネイドは覚悟を決めた。
言ったことは本当だった。現に、今は姿を見せてはいないが、確かに『彼』は『自分とは違うところから』ここを見ている。しかも忌々しいことに、楽しげに笑いながらだ。男が気付かないのは長年青年といたために同じ気配に慣れたせいだろう。
ざくざくと、草を踏みながら男が歩いてくる。
ネイドは少し苦笑した。
(あいつら、元気かな)
数週間前まで談笑していた友人達を思い出しながら、ネイドはおもむろに座り込み、どこからか持ち出した荷物袋から品を取り出していく。
全て、この数ヶ月で手に入れたものだった。懐かしそうに見やりながらまた全て戻していく。
立ち上がり、そして最後に一対のダガーを取り出した。
"Epilogue"はどうやらあっけないものになりつつあるようだった。
勝っても負けても生きられはしないことを、この時点で青年は熟知していた。
しかし、"Epilogue"までの道のりはあまりにも充実していた。
それでいいではないか。
そしてまだ、僅かな時間とはいえ、まだ舞台は終わっていない。
ならばする事は一つだった。
「――俺はテュルみたく潔かないんでね。最後まで足掻かせてもらうぜ、ユルレ」
今までの戦闘の時と何ら変わりないように、ネイドは不敵に笑った。
******
ある大陸、ある港町の大きな酒場。
「……ねえマスター、この張り紙は何?」
「ああ、冒険者ギルドから回ってきてるんだよ。何でも北の森に厄介な魔物が出るらしくてなあ、倒した奴には懸賞金も出るぜ」
「へぇ」
酒場の主人の話を頷きながら聞いていた娘の目がきらりと光った。
そして張り紙をゆっくりと上から眺めていく。
魔物の名前、姿形、出現場所、全て頭に叩き込んでいった。
勿論懸賞金の額を叩き込むのも忘れない。
……叩き込んだついでに、主人に分からないように舌なめずりをした。
……彼女は今、とにかく金がなかった。
「へぇ、って。嬢ちゃん、まさか倒す気じゃあねぇだろうね。そいつはでかいし手ごわいし、しかも数も多いって噂だから、せめてギルドで仲間を募って」
「何言ってんのよ、分け前が減るじゃない」
真顔で言う娘に主人は閉口した。娘は至って本気だった。
とはいえ、流石に本当に一人で行くのは得策ではなさそうだ。娘はやはり仲間がいるかと考え、……ある思い出に思わず後ろを振り返った。
酒場特有の喧騒が聞こえてくる。杯を掲げて雄たけびをあげる者、酔いつぶれたのかテーブルに突っ伏して眠る者、酒飲み勝負や腕相撲をする者もいれば大声で何か地図のようなものを売る者もいる。
しかし彼女が思い描いていた人物たちはどこにもいなかった。
(……当たり前よね、あいつらはもういないんだもの)
あれだけ手を尽くして探しても結局あの三人を見つけることは叶わなかった。あの時と今では五千年も時が離れているのだ、見つかる筈がない。それでも思わずにはいれなかった。
小さく息をついてまた張り紙に目をやった時、いつの間にか横に誰かがいることに気がついた。驚いて娘がその方向を見ると、その人物も張り紙に興味があるらしく、主人に情報を聞いている最中だった。
背の高い獣人の男だ。鎧を着けているところから見て、冒険者だろう。普通に話をしている今でさえ隙が窺えないところを見るに、腕が立たないわけでもないようだ。そして話に聞き耳を立てるに、彼も仲間を探しているらしい。
主人との話を終えた後、彼女は男に張り紙の話を持ちかけた。彼女が魔法使いである以上前衛で守る者は必要だったため、丁度いい逸材がいたのでギルドへ向かう前にとりあえず持ちかけただけだったが、意外にも男はすぐに頷いた。何も考えていないのではないかと一瞬悪い予感が頭をよぎったが、すぐに娘は笑顔になった。
基本的に始まりとはこんなものだ。
「あたしはレミール。あんたは?」