「なあ」
月明かりが今は、煌々と木々を照らしている。
そして彼らをも。
風も雲も動物の鳴き声すらもない、とても静かな夜だった。
「……なあ」
青年は隣で片足を投げ出し座る男に呼びかけた。
先の一言には反応せずに空を見ていたが、再度の呼びかけには応じる気になったのか、彼はゆらりと頭を下げ、目だけ隣の青年に向けた。
「……何だ」
一言。
甘く響く重低音が静かに森に広がっていく。
聞く者は共に大木に凭れ掛かっている青年だけだ。
彼らの主である子供も、何にも負けぬ娘も、今は宿で休んでいる。
「――……いーや、」
青年は口を開きかけ、……しかしごまかすように手を振った。
「呼んでみただけさ」
「……フン」
それだけで興味をなくしたらしく、また男は空を見上げた。
青年も釣られて空を見上げる。
暗く青い空の中に孤独に月は浮かんでいて、そういえば星が見えないな、と青年は思った。
見事な満月だった。
「お前はさー」
やはり青年が口を開いた。
男はもう一度彼を見たが、話す青年は先ほどと違って空を見上げたままだ。
「覚えてるのか?」
「何をだ」
「分かるだろ?」
見上げていた目を男に向ける。
月の光すら弾き返す金と、くすんだ月を受け入れる金が交差した。
「おれは、」
先に男が目を逸らし、また空を……月を見上げた。
「……おれは、"Hurler"だ。それ以上も、……それ以下もねえ」
――そうだろうな。
言葉を口には出さず、青年はずっと彼に向けていた目を閉じた。
風もないのに木々がさわさわと揺れる。
……ネイドは、ユルレが人間であり、そして自分は違うことを知っていた。
自分が"Neid"であり、しかし本当は"Neid"ではないことも知っていた。
そして、知ったところで何をも変える事など出来ないことも知っていた。
(……このままじゃ)
青年は自分たちが泊まっている宿のあるだろう方向に視線を向ける。
そして眠っているだろう小さな子供を思い浮かべ、つと目を細めた。
(……待っているのは悲劇だけだぜ、テュル)
全員が全員、知らぬ間に胸に響く助けを請うことすら出来ず、普通に振舞おうとしている。
……きっとあの娘を受け入れたのも、彼女の光に焦がれてのことだったのだろう。
「……あーあ、明日はレミちゃんでも誘ってカジノにいこっかなー」
「そんな金がどこにある」
態と大きく伸びをしながら言うと、即座に隣から反応が返ってきた。
「ふふん、このネイドさまをなめるなよユルレくん。金なんてそこらのお金持ちからちょちょいのちょいさ」
「それで盗み損ねて危うく捕まりかけたのは誰だと思ってやがる」
「俺って昔のことは気にしない主義なの」
「……必死で謝り倒したのは誰だと思ってやがる?」
「……てへ☆」
「てへ、じゃねえ!」
……静かな森の中では、少しの大声すら怒号に変わる。
……もちろん、ばきっ、という、大木を割る音も。
……ネイドがユルレの鉄拳を避けた時に、代わりに犠牲となった木の割れる音だった。
……一瞬前まで共に凭れていた木が、ばきばきと盛大な音を立てて反対側に倒れていく。
「いやーんユルレんったら暴力的ー」
「……毎度毎度ちょこまかと……」
諦めたのか気が済んだのか、男はその折れた木に再び凭れかかった。
少し舌をぺろりと出してから、青年も倣って根元に腰掛ける。
また口を閉ざしてしまえば、すぐに闇と草と木と空の香りがこの場を支配する。
――ここが世界の終わりな気がして、青年は目を閉じた。
……さわさわと、風もないのに木々の鳴る、音が――
ふと、隣から静かな声が聞こえた。
目を開き見ると、男が目を閉じながら何かを口ずさんでいる。
あまりに小さくて殆ど聞き取れないが、しかし音というには余りに思いの篭った、
……その詞には覚えがあった。
何処かで誰かが唄っていた、名もないような澄んだ歌の。
空気を震わせることすら許さないかのような彼の『音』は、まさしく溶け出すかのように消えていく。
周囲の静けさを、壊すことなく唄い続ける。
(いっそ、壊しちまえばいいんだよ)
静かであるが故に、抜け出すことの出来ないこの世界を。
しかしきっと彼はそれをしはしないだろう。
青年は『男と最も長く付き合ってきた者』として、それを痛いほど知っていた。
……本当の自分も、きっと知っている。
(お前は昔からそうだよな、――)
彼すらも知らない男の真名を心の中だけで呟いて、今はない風の音に耳を済ませた。
ゆっくりと目を閉じる。
(夜の闇が、良く似合う……)